最近のはてなについての話 その10。 from <abbr title="Hatena Diary">?D</abbr>s その2

最近のはてなの話カテゴリであるrecent ?D全体にリンクを張る際は[recent ?D]のリンクが便利。カテゴリって素敵。

えーとえーと。はてなのシステムそれ自体は閉塞感をもたらすものだとは限らなくて、同じ物事に関心のある仲間を探して知り合うためのツールとして使うのが、一般的なんじゃないかなあと。

(中略/186)

んで、はてなでのキーワードは、あんまり自覚的にオンオフされてるわけじゃないし(キーワードを検索可能な形でリンクさせるか否かは、書いたあとで編集できるんだけれどね)、口論になりそうなネタを予め除いてくれる電子頭脳もない。じゃあ、そういう状況で、何がその技術の使い道を分かつのか。口論と論争ばかりの明示的な閉塞感と、話題的に身近な人と交友するためのツールとの、使い道の差をもたらすのか。

まあ、その答えの一つは、使ってる人の意識が決める、ってことになるんだろう。ウェブは鏡みたいなもので、本人が「俺は説明責任を果たす」って宣言すると、周りのコミュニティが全体として説明責任を果たすことを前提に出来上がってくるような気がしちゃう。そしてその「気がしちゃう」の総体が、コミュニティの実質を規定していく。

また一つの答えは、はてな以前からのその人の交友関係が決める、っていうのもあって、周りにそういう口論好きな人が多かったら、そのコミュニティの中での彼の立ち位置もやっぱりそういうものになるんでしょうね。

意識すると相当恥ずかしいので、みんな言わないんだけど、そういう自分内テキスト系ヒエラルキーみたいなのを、実はみんな持っていて、その中での自分のランクが上がった下がったで喜んでる人(おれ含む)は、かなり多いのではないか。

正直「テキスト系」って全然知らないし埒外だしむしろ「なんだそれ」とか思うわけですが、結局はてなで自分のやってることだって、「読んだよボタン」「投票ボタン」と大差ないような気がしてくる。

実際、大差ないんだけども、「淋しい」「空しい」「見てほしい」「認めてほしい」「投票ボタン押してぇー」とかいう、もろもろの恥ずかしいことを、ユーザーに言わせずに、システム内に閉じこめて非言語化してしまったことが「はてな」の抜けた点だし、ユーザ増加の原動力だったと、思います。

(中略/186)

だからその、ムラ化か閉鎖的になってるとかいうのは順番が逆で、ユーザが増えて弱い人のムラが出来るようになったんじゃなくて、もとから弱い人向けに出来ていたっていうのが、自分の感覚に合っている。

それをワセダとか定義されてるのだろうか。でもワセダに向かって「やーいワセダ」と言われてもなぁ…。そんな、一次情報をぽんぽん産出できるほど豊かな人生を送ってませんとも。

むしろ、そこから始めようということじゃないのでしょうか。

そして昨日、コンピュータ系の某出版社からこの秋にでるブログ本の企画として、編集長はなぜブログをするのかという座談会に出てほしいといわれて出席した。参加者は業界ではとても有名なウェブサイトの編集長2人とぼくの3人だったが、こちらは他社の企画なので実名はとりあえず伏せるけれども、そこで話題になったことは、東さんたちにお願いした対談の内容が微妙に重なり、また微妙にずれていた。そこにあるのは「はてな」といわゆる「ブログ」との文化的違いというか、日本とアメリカのネット文化の違いというか、あるいは世代的なネット観の違いなのか、とにかく二日続けの対談と座談会で、自分とウェブとの関係をあらためて考えさせられた二日間だった。

「はてな」と「ブログ」の差は具体的にどのように表れるのか。近藤さんの「日本人にはBlogより日記*1的なあれがあるのか。