最近のはてなについての話 その17。

最近のはてなについての話を淡々と記録するよ

はてなの新機能である「おとなりページ」(http://d.hatena.ne.jp/hatenadiary/20031013)は、はてな界の重力から自由なサイトさえもその網にからめ取ってしまう、蠱惑的な装置だ。

(中略/186)

これでまた、「はてなとワセダは親和性が高い」というような理論に弾みが付くことになるだろう。

実際はてなは、見方次第ではウェブ上に強い粘着力と自己増殖能力を持ったもう一つのウェブを張り巡らす、巨大なタランチュラに育ちつつある。グーグル検索において、高い頻度で上位にはてなが出てくるのを目にするようになって漸くそれを確信した。また脈絡なくグイン・サーガに喩えるなら(もう長いこと読んでねえのに)、最初おれの中でイシュトヴァーン的な存在だったはてなの近藤さんが、このごろアルド・ナリスのような策士に思えてきてゾクッときた。

他の人にこう思われてしまっている、ということ自体が問題なのであって、自分たちが「○○なつもり」とか言うだけで済む問題ではない。SFCblog界隈について言及されているだけに、ちょっと違うんじゃないか、という議論をしたりする必要はある。

(中略/186)

たまたまSFCがMT入れてみよう、みたいなハナシでやっていただけなのに…。そう、でも、「なぜはてなではいけないのか」という指摘を友人に受けたし、そこは考える必要があるかな。考えておかないとただの「blogブームに乗っかった人たち」になりかねない(実際は半分当たり)。キーワードが勝手につながっていくという点で、相当おもしろい(ネガティブな面もあるが)とは思う。だだ、SFCという場で、せっかく自分のアカウントがあるのに、簡単だからという理由だけではてなサーバに頼る必要もないかな、と思っている。あえてこの二項対立に乗っかって、慶應をスレテオタイプで表現すれば、「独立自尊」だったりして?

(中略/186)

性急に「慶應と早稲田」で二分するほど、うちらもおっちょこちょいではないと願っている。多分、これに関してはそんなに心配ないと思うけど。

はてな|早稲田|文字列|シンプル|ぼへみあん|

MT |慶応 |型/定義|オシャレ|貴族 w3c 村井純|

(中略/186)

でも、「ぼへみあん」っていう定義が「村=閉鎖的」と対立することからもわかるように、id:bmp*1さんは早稲田に対する当てこすりでもなんでもなく、伝統的に蓄積されてきたパブリックイメージにのっとって両者の対比をしているだけのように思える。なのに、それがいつしか「はてな=ワセダ」説として一気に流言飛語化しているところに、かえってこの話題が流通している回路の閉鎖性を感じる。どうせなら「MT=慶応」説が妥当なのかどうかも誰かにチミツに検証してほしいのだが、これってSFC界隈だけでしか話題になっていない、ということだろうか。だとしたら、そちらのほうがよほど閉鎖的ではないかなあ。

いっそのこと、「全はてな村民におけるワセダ率調査」をやってみたらどうでしょう。いや、そういうことを気にすること自体が、また「ワセダ」的といわれる所以なのかもしれないけど。

すっかり言い忘れていましたが、bmp氏@メモっとく@?Dよ。それはカテゴリです。

(前略/186)

で、この話の結論めいたこと言うと、サブカルな人も、淡々と洞察を語ってるとカッコイイけど、あんま、はてなはてなって、内巻きで土台に関する事バッカ言ってるのキモイよね、っていうか、今2ちゃんのスレで息巻いて長文書いてるのそういう人なんだろうなとか思って、気持ち悪くなった。

(中略/186)

はてなの雰囲気的には、アクセスとか人気とか、そういう権威めいたものとは無縁っぽい物を感じるけど、カリスマ云々とか発想が違ってるし、はてなで影響力をみたいなこと考えたら、はてなはてなってはてなのことばっか話題にしてなきゃならなさそうだし、全然目指す物が違うよなーと思ったりしたり、本当の価値あること言っているのは淡々としたサイトの中にあると思うし、とか言う話でした。

今月のゲームラボの東(id:hazuma)の連載は、はてなダイアリーである。彼は、はてなが、「閉じられつつ外へ向かう」場である、と称揚している。

その理由として、現在のはてなの規模は、サブグループを育む程度の大きさはありつつ、その中で情報が拡散せずに、綿密に行き来するくらいの規模がある絶妙なバランスのせいではないか、と述べている。

はてなというシステムは、俺も、よくできていると思う。適度に閉じられ、適度に風通しの良いコミュニティは大切であり、はてなには、それを推進するシステムがある。

また、「自分達がはてなの代表者のように振舞っている」という指摘は、かなり多くの利用者が感じていたと思う。「核」ができることによって、融合は進み、もしかしたら自分もいつか取り込まれるんじゃないかという不安。僕はそれを感じていた。はてなユーザーがひとつの生命、力、意見になる。そんな「劇場版はてな」なんて僕は御免こうむる。

今回は「あさはかだった」の一言で片付けてもいいような気がする。いや、その一言で片付けられないなら、それこそがはてなのキモさだ。

こういう話題に噛み付く奴がキモさを助長させてるのかもしれない。

上の文章ははてないとというオフ企画に対する意見の一部である。あえてこの様に切り取らせて頂いた。関連するリンクは省略する。探すことは容易い。